ログインその問いに、継母がすぐさま口を挟もうとした。「侯爵様、若い娘の一時の不安で」 「本人に聞いている」 低い声が、継母の言葉を切った。 怒鳴りもしない、顔色も変えない。ただそれだけで、相手の言葉を床へ落とすような声音だった。継母は唇を閉じたが、その表情はこわばったままだった。 リリアーナは、膝の上で手袋越しに指を組んだ。白い革の下で指先が少し冷たい。けれど声は震えなかった。「理由は一つではありません」 「聞こう」 「わたくしは、この婚約が双方の家にとって最善とは思えません」 「双方の家」 セドリックがその言葉を繰り返す。響きに、かすかな違和感が混じった。彼が聞きたいのはそこではないのだと分かる。だがリリアーナはあえてそこから外さなかった。「はい。伯爵家は侯爵家との縁に多くを期待しすぎています。婚姻後、その期待は必ずわたくしを通して侯爵家へ向けられます」 「……」 「一方で、侯爵家にとってはそれが煩わしい負担になるでしょう」 「それは誰の判断だ」 「わたくしの判断です」 セドリックの視線が少しだけ沈んだ。 その反応の意味を考えたくなかった。だからリリアーナは続ける。「加えて、侯爵夫人との相性にも不安がございます」 「リリアーナ!」 今度は継母が悲鳴のように名を呼んだ。だがもう止まらない。止まるつもりもない。「昨日の訪問で十分に理解しました。わたくしはあの屋敷に歓迎されてはおりません」 「そんなことは」 「お母様。わたくしは自分が見聞きしたことを申し上げています」 継母の顔が強張る。父も苦い顔をした。だがセドリックだけは動かなかった。ただ、静かに彼女の言葉を受け止めている。「……それだけか」 しばしの沈黙のあと、彼が言った。 それだけか。 その問いに、胸の奥がざらりと逆立つ。 それだけでは足りない、とでも? もっと本当のことを言えと? あなた自身のことを言えと? だが、そこへ踏み込むのは危険だった。彼が前世と違うのは分かる。けれど、その違いの意味を知るのはまだ怖い。知ってしまえば、また心が揺れる。だから論理だけで押し切るつもりでいたのに、彼はその外側を見ようとしてくる。「十分ではございませんか」 リリアーナは冷たく返した。「婚約解消を願う理由としては」 「私は、君の言
パート2 けれど、階下へ向かう途中で、その期待は別の形で裏切られた。 応接間へ近づくにつれ、屋敷の空気が妙に張っているのが分かったのだ。使用人たちは気配を消すように壁際へ下がり、皆一様に落ち着かない目をしている。侯爵家当主が突然来訪した、それだけでも十分な衝撃なのだろう。だがそれだけではない。誰もが知っているのだ。この数日、伯爵家の中で婚約解消の気配が燻っていたことを。だからこそ、今この来訪が何を意味するかを、漠然とでも感じ取っている。 応接間の前で一度立ち止まる。 扉の向こうからは、会話らしい会話は聞こえなかった。ただ、時折父の低い声と、継母の取り繕ったような柔らかい声音が断片的に漏れる。セドリックの声は、聞こえない。沈黙しているのか、あるいは短くしか答えていないのか。 ノックをしようとした時、ちょうど内側から扉が開いた。出てきたのはマリアンヌだった。頬が少し赤く、目は落ち着かない。「お姉様……」「どうしたの」「お父様が、あなたを」 そこで妹は言葉を切り、唇を噛んだ。怯えている。侯爵家の圧にではなく、この場に流れる大人たちの緊張に。「呼ばれたのね」「ええ」「なら入るわ」 マリアンヌは道を開けた。何か言いたそうだったが、結局何も言わない。あるいは言えないのだ。婚約破棄を口にした姉が、今や家の中でただの姉ではなく、場の均衡を崩す存在になってしまったと、薄々気づいているのかもしれない。 リリアーナは一度だけ息を整え、応接間へ入った。 * 室内は、静かすぎるほど静かだった。 暖炉の火は入っている。薪の弾ける小さな音もする。香りのよい紅茶も運ばれていて、卓上には菓子皿まで整えられていた。見た目だけなら、急な来客を完璧に迎え入れた伯爵家の応接そのものだ。 けれど、その整い方の上に乗っている空気は、まるで薄い氷の板のようだった。 父はソファの端に座り、表情を無理やり平静へ留めている。継母はその隣で笑みを貼りつけているが、指先が膝の上でわずかに強張っていた。対面の一人掛けには、セドリックがいた。 黒の礼装のまま、背筋を一分の狂いもなく伸ばして。 こちらを見た瞬間、彼の顔は動かなかった。少なくとも表面上は。けれど、その瞳だけが、あまりにも静かに、そして深く揺れた。探していたものをようやく見つけた人間のように。安堵しかけて、それを即
婚約破棄の噂は、三日で屋敷じゅうを巡った。 誰かが意図して流したのか、ただ使用人たちの囁きが勝手に膨らんだだけなのか、リリアーナには判別がつかなかった。だが少なくとも、父が書斎で娘と長く話し込んだこと、継母が珍しく昼の茶会を断ったこと、マリアンヌが食堂で妙におとなしかったこと、その三つが揃えば、伯爵家の中で何かが起きたのだと察するには十分だったのだろう。 朝、廊下を歩けば会釈の角度がほんの少し深くなる。 昼、食堂で水差しを持つ手がわずかに慎重になる。 夜、扉の向こうで足音が止まっている気配がする。 露骨な変化ではない。だが、確かにあった。 人は、自分が「ただ従うもの」だと思っていた相手が牙を持っていると知った瞬間、見方を変える。 それを、リリアーナは今、肌で感じていた。 重たい曇り空の午後だった。窓ガラスの向こうで、庭木の枝が低い風に揺れている。春は近いはずなのに、空気はまだ冬を忘れきれない。エマが淹れてくれた紅茶も、少し置けばすぐに表面の熱を失った。 机の上には、これまで書き留めた紙が並んでいる。 ヴァレンティア侯爵邸訪問の記録。 父とのやり取り。 レーヴェン商会。 穀倉担保。 侯爵家に嫁いだあとの実家からの便宜要求。 義母の言葉。 社交界の嘲笑。 前世では、どれもその都度胸を傷つけるだけの出来事だった。だが今は違う。全部が未来を変えるための材料になる。紙の上へ並べられた文字は冷たい。けれど、その冷たさがかえって彼女の気持ちを保たせていた。悲鳴のような感情は、文字にしてしまえば輪郭を持つ。輪郭を持てば、対処ができる。「お嬢様」 エマが小さく呼んだ。「アデル様からの返書は、まだ本日は」 「分かっているわ。そんなにすぐ来るはずないもの」 「……はい」 そう言いながらも、二人とも少しだけ落胆していた。 叔母からの返事が欲しかった。話を聞いてもらえる相手、自分の考えを“気まぐれ”ではなく“意思”として受け止めてくれる相手、その存在が今は何より欲しい。だが手紙は距離を飛び越えてすぐ戻ってくるものではない。 それまでの間に、伯爵家のほうが何かを仕掛けてくる可能性は十分にある。 父は婚約解消を即答しなかった。 だが、前のように頭ごなしに否定もしなかった。 あの沈黙は、怒りでは
父は机の上の書簡へ視線を落とした。濃紺の封蝋。レーヴェン商会だろう。そこへ視線が落ちたこと自体が答えだった。 リリアーナは最後の一歩を踏み込む。「お父様」 「何だ」 「お父様が本当に家を守りたいなら、今見るべきは侯爵家ではなく、机の上のそれです」 その瞬間、父の表情が止まった。 自分でも分かった。今の一言は深く入った。侯爵家という巨大な外の救いではなく、足元の火種を見ろと娘に言われたのだ。誇り高い伯爵にとって、それがどれほど痛いかくらい分かる。だが痛いからこそ効く。 長い沈黙のあと、父は低く言った。「出ていけ」 「お父様」 「今すぐ答えは出さん」 「……」 「だが、話は聞いた。もう出ていけ」 追い払う声だった。けれど拒絶とは少し違う。少なくとも最初のように“下らない我がまま”として切り捨てられてはいない。 リリアーナは深く礼をした。「ありがとうございます」 「礼を言うな」 吐き捨てるような声音。しかしその裏にあるのは、怒りと、焦りと、娘への薄気味悪さだった。 扉へ向かう。手をかける。その前に、背後から低い声が落ちた。「リリアーナ」 「はい」 「……お前は、本当にどこまで見ている」 振り返らずに答える。「お父様が思うより、ずっとでございます」 それだけを残して、リリアーナは書斎を出た。 * 廊下へ出た瞬間、張り詰めていた息がようやく抜けた。膝が少しだけ震える。けれど倒れそうではない。むしろ、体の奥に妙な熱が残っていた。 言った。 最後まで、飲み込まずに。 前世では父にも継母にも、こんなふうに話せなかった。怒られるのが怖くて、嫌われるのが怖くて、家のために従うのが正しいのだと思い込んでいた。けれど今日、自分の口から出た言葉は、そのどれよりも強かった。 廊下の角で、継母が待っていた。顔色が悪い。唇だけが不自然に赤い。「あなた、何をしたの」 「お話をしただけです」 「何を吹き込んで、旦那様をあんな顔に」 「吹き込んではおりません」 「嘘おっしゃい! あの人があんなふうに黙り込むなんて……」 継母はそこで言葉を切った。つまり、彼女自身も見たことがないのだ。父が娘に気圧されたような沈黙を。 リリアーナは静かに言う。「お母様。わたくしは本気です」 「……」 「
「すぐに別の大きな縁談を探す必要はないかと存じます」 「そんな悠長な」 「悠長ではありません。むしろ今、急いで別の格上へ繋がろうとするほうが危険です。家の焦りを市場に晒すことになります」 「……」 「まずは商会との条件整理です。次いで担保の再編。家の体裁を保つにしても、婚姻を資金繰りの止血に使うべきではございません」 「お前に、そこまで」 「分かります。少なくとも、娘を一枚差し出せば全部丸く収まると思うほど、婚姻は便利ではありません」 父の喉が小さく動いた。 その反応を見た瞬間、リリアーナは悟った。刺さったのだ。しかも深く。父は“娘が反抗している”のではなく、“家の隠していた計算を読まれている”と理解した。だからこそ、さっきから怒りだけでは押し切れなくなっている。 マリアンヌが震えた声で言う。「お姉様、そんな言い方……。お父様もお母様も、家のために」 「ええ。だからこそ、家のために言っているのよ」 リリアーナは妹を見た。責めるつもりはなかった。まだ何も知らないのだ。この家がどうやって娘の価値を測るかも、婚姻がどう使われるかも、身をもっては知らない。「今の私は、この婚約が伯爵家を救うとは思えない」 「でも侯爵様は」 「侯爵様個人の態度は問題ではないわ」 「どうして?」 「家と家の話だから」 そう言い切ると、自分の胸の内で何かが少しだけ軋んだ。問題ではない、と言いながら、セドリックのあの違和感が全く無関係だとは思えていない自分がいる。だが今はそこを認めない。認めれば論が曇る。 父がゆっくり立ち上がった。椅子の脚が床を擦る低い音に、食堂の空気がまた張る。「……書斎へ来い、リリアーナ」 「あなた」 継母が焦ったように声を上げる。父はそちらを見ずに言った。「お前とマリアンヌは下がれ」 「ですが」 「下がれと言っている」 低い一喝に、継母が口を噤む。彼女の顔には怒りよりも、はっきりとした不安が浮かんでいた。娘が知ってはいけないことを知っている。その事実が、彼女にもようやく重くのしかかったのだ。 リリアーナは立ち上がった。膝が少しだけ強張っている。けれど足は震えない。 父のあとについて食堂を出る。廊下はひやりとしていた。朝の光が長く床へ落ち、壁に掛かった風景画の金縁だけが鈍く光っている。後ろで継
詰まった。 そこで初めて、マリアンヌでさえ父の顔を見た。つまり、そうなのだ。父は求めるつもりなのだ。最初から。「誓えないのであれば、わたくしの申し上げている危険は現実的です」 「……」 「そして、その要求が重なれば重なるほど、侯爵家にとってわたくしは“厄介な妻”になります」 「そんなもの、お前が上手く立ち回れば」 「立ち回ってどうなりますか」 今度はリリアーナが一歩も引かなかった。「実家と夫家の間で都合よく動く女は、どちらからも信用されません」 「……」 「お父様はわたくしにそれをなさいと?」 「家の娘なら当然の」 「では、家の娘として申し上げます」 リリアーナは深く息を吸った。肺の奥まで冷たい空気が入り、逆に頭が冴える。「その役目は失敗します。わたくしには無理です」 「何だと」 「わたくしは、侯爵家へ便宜を願い出るたびに恥をかき、実家からはもっと役に立てと責められ、最後には両方から不要とされる」 「最後、ですって?」 継母がそこに反応した。 最後。あまりにも確信的な響きに、さすがに不気味さを覚えたのだろう。リリアーナは心臓が一つ強く打つのを感じた。危ない。ここで前世の記憶を未来予知のように言ってはいけない。「そうなり得る、と申し上げております」 「あなた……」 「お父様、お母様」 声を少しだけ落とす。怒鳴らない。静かに言ったほうが、この場では効くともう分かっていた。「わたくしは泣いて婚約を嫌がっているのではありません。伯爵家の娘として、家の見通しの甘さを申し上げているのです」 「見通しの、甘さ」 「はい。今必要なのは、格上の侯爵家へ娘を差し込んで救ってもらうことではなく、レーヴェン商会との条件見直しと、穀倉担保の整理ではありませんか」 「……お前」 「さらに申し上げれば、侯爵家との婚姻が決まったあとに条件を緩めてもらえば、商会側にも“伯爵家は侯爵家を後ろ盾に持った”という印象を与えます。その結果、今後の交渉でますます家の財務の実情を隠しづらくなる」 「黙りなさい!」 継母がついに声を荒げた。 鋭い叫びに、控えていたメイドがびくりと肩を揺らす。マリアンヌは半ば泣きそうな顔で母を見る。だが父は怒鳴らなかった。むしろ、机の一点を凝視したまま沈黙している。 効いている。
部屋へ戻ってから、リリアーナは窓際に立ち尽くしていた。 外では風が少し強くなってきて、庭の若木が枝先を揺らしている。白い洗濯布がはためく音が、遠くで乾いた鳥の羽音と重なった。日差しは明るいのに、胸の中は晴れない。むしろ、時間が近づくほど息苦しさが増していく。 侯爵本人が来るかもしれない。 その事実が、想像以上に彼女を乱していた。 会いたくない。見たくない。声を聞いたら、きっと前世の記憶が一気に押し寄せる。 けれど、会わなければ何も分からない気もした。彼が本当に前世と同じなのか、それとも違うのか。最後に見た涙が、ただの死に際の錯覚ではなかったのか。 なぜ知りたいのだろう。 知っ
焼きたてのはずなのに、味がしない。むしろ、喉が拒む。飲み込むたびに胸が詰まる。 父は新聞を畳み、ようやく本題へ移った。「本日、ヴァレンティア侯爵家から使者が来る。調印前の最終確認だ。侯爵ご本人が同行される可能性もある」 「ご本人が?」 声が掠れた。 前世ではどうだっただろう。思い出す。たしか、使者だけだった。セドリック本人は調印の日まで現れなかったはずだ。あの人は最初から、この婚姻に個人的な熱意など持っていなかった。だからこそ、それが普通だった。 なのに、今回は違うかもしれない? なぜ。「ええ、そう伺っておりますわ。侯爵様はお忙しい方ですのに、ありがたいことですこと」 「本
呼吸が浅くなる。「お嬢様、本当にお加減が……」 「エマ」 顔を上げる。エマは心配そうに眉を寄せていた。何も知らない目だ。この子はまだ、侯爵家の冷たさも、あの結婚がどういうものになるかも知らない。何も知らないまま、数日後には笑って見送るのだ。どうかお幸せにと。 その純粋さが、ひどく痛かった。「婚約調印は……明後日ではなく、四日後だったわね」 「はい。旦那様も奥様も、支度に慌ただしくしておられます。お嬢様のお支度の最終確認も本日中に、と仰っていて」 「そう」 やめなければ。 その言葉が、驚くほどはっきり胸の中に落ちた。 やめなければ、また同じになる。 同じ朝を迎え、同じ家へ
窓辺の椅子。白木の化粧台。淡い花柄の壁紙。小さな暖炉。磨かれた床板。壁際に置かれた、母が選んだと自慢していた陶器の花瓶。 ここは。 ここは、エヴェルシア伯爵家の、未婚の令嬢だった頃の自室だった。「……エマ?」 声を出した瞬間、自分で息を呑んだ。 高い。若い。喉を使うたびに微かに震えるその声は、侯爵夫人として十年を過ごした女のそれではなく、もっと柔らかく、まだ世間に擦り切れていない頃の声だった。 ベッド脇に立つ侍女が、ほっとしたように眉を緩める。「はい、お嬢様。お目覚めでございますか。少しうなされていらっしゃいましたので、起こすのが遅れました」 エマ。 栗色の髪をきっちりま







